財界幹事長と呼ばれた今里酒造の元番頭 今里広記から見る波佐見気質

2014.12.26 Friday

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    今里広記、波佐見の人でもその名前を知る人は、
    おそらく40代以下は皆無なのではないでしょうか。
    今里広記
    (上記画像は波佐見町ホームページよりお借りしました)
    私もたまたま今里酒造について調べていたら、この経済人の名前が浮かんできたので、
    Amazonの中古で価格1円で売られていた、一冊の本を取り寄せてみました。

    昭和60年以前にはそれなりに高い知名度があったのでしょうが、
    そもそも本人自体が決して目立つ活躍を見せずに、裏方に徹したため、
    知る人ぞ知る存在であったのは紛れも無い事実のようです。
    そんな人物ですが、波佐見の人の魅力を表現するにはとてもよい題材ではないかと感じ、
    この一冊から今里広記という男のエッセンスをご紹介します。

    今里広記氏は、知る人ぞ知る人物だと思いますが、さだまさし初代後援会長でもあります。
    (以下本文より引用)
    —————————————————
    若者向け雑誌の冒頭つまり、このほど経済同友会の代表幹事となった石原俊の前に
    デカデカとでていたのがこの本の主人公今里広記の名前であった。
    略歴の説明には次のようなことが書いてある。

    <今里広記ー明治40年、長崎県生まれ。日本精工相談役。経団連常任理事、経済同友会終身幹事。
    財界のまとめ役として有名で、”財界幹事長”の異名をとる。
    最近では電電公社民営化にともなう設立委員会の委員長を引き受け、その才人ぶりを発揮した。

    親友である中山素平興銀特別顧問との間柄は関係者から”知恵の中山、行動の今里”といわれ、
    田中内閣時代にブリティッシュ・ペトロリアムから七億八千万ドルで買い取った
    アブダビ沖原油の採掘問題で、一時批判もあったが、その後、国策会社である
    ジャパン石油開発が軌道にのったため、その深い読みが再評価された。
    「キャプテンサービス」の社長に就任したり、前述のNTT設立に関与するなど情報化社会に目を向けている>

    ついでながら、こうした今里をまだよく知らない読者のために、もう少し説明を加えておくと、

    学歴は旧制中学卒、十代で生家の造り酒屋「今里酒造」の番頭となり、
    二十代で石炭会社経営(福岡)、詐欺師に引っかかり丸裸で上京。
    戦時中は軍需会社を経営。そして戦後「日本精工」の社長となって財界人への足がかりをつかむ。
    もっか経団連、同友会のほかに東京商工会議所常任顧問、日本経営者団体連盟顧問もかねる。
     
    いいかえれば、永野重雄(前日商会頭)、桜田武(前日経連会長)の二人が鬼籍にはいってしまった現在、
    いまや経団連会長の稲山嘉寛とならんでわが国財界の最高峰に位置する人物である。
    —————————————————

    この略歴だけでは分かり難いでしょうが、今里氏は仕事を始めてから終始一貫して、
    自らの意思で職に就くよりも、他者からの影響によって仕事を始めることがほとんどでした。
    この著書が書かれた70代を超えた晩年期であっても、それは変わらなかったようです。
    著者の永川さんは冒頭で”友=人脈”は人生最大の財産であると定義して、
    その意義を今里氏の生涯に求めています。

    私が、この著書で今里氏の魅力を感じたのもその点であり、
    この視点は、時代や立場を超えて、
    人間関係を円滑にするために必要不可欠生き方であると考えさせられます。
    以下、今里広記という人物自体がほとんど知られていないので、
    引用文が多くなりますが、勘弁して読み進めていただければ幸甚です。

    今里広記の生い立ちとその仕事人像 (以下本文より引用)
    —————————————————
    今里広記は明治40年11月27日、長崎県東彼杵郡上波佐見町に生まれている。
    父は友次郎、母は加代、男三人兄弟の三男である。

    生家は地元で八代つづいている造り酒屋(銘柄は六十餘州-九州地区・品評会で一位、
    現在は今里の甥が跡を継いでいる-)で、父・友次郎は当時波佐見銀行という銀行も経営していた。
    この銀行はのちに玖島、彼杵の各銀行と合併し大村銀行となる。

    父・友次郎はここの初代頭取をつとめた。現在の親和銀行の前身である。
    母方は元大村藩士で黒板家。祖父は要平といい、母の兄弟のうち長兄・勝美は歴史家、
    次兄・伝作は東京帝大機械科をでたあと月島機械(一部上場、今里駿策は伝作の長男)を設立。

    母・加代は末娘で長女である(前にもちょっとふれたが、
    今里は酒屋の番頭時代、息抜きのためにしばしば上京しては、
    この伯父・伝作の手引きで歌舞伎や芝居のおもしろさを知ったといわれる)。

    広記の兄で、長兄は久香、次兄は建美といった。長兄はすでに述べたごとく東京帝大で、
    学校をおえるとすぐ近江銀行に就職してる。かねてから家業を継ぐのを嫌い、
    父親もやむなくこれに同意しての結果であった、当然、家業は次兄・建美が継ぐことになった。
    ところが、この次兄は家業を継いでまもなく、二四歳の若さで夭逝してしまった。

    困ったのは三男である今里であった。上二人がいなくなった以上、
    いやおうもなく家業の後継者は彼のところにお鉢がまわってくるからだ。
    うむをいわさぬ父・友次郎の下命であった。「広記、酒造りはおまえに任せたぞ」
    小さい時から大きな酒樽や威勢のいい掛け声のなかで育ってきた今里は、
    家業が嫌いではなかったが、いざ自分が継ぐとなったら躊躇せざるをえなかった。

    ましてやまだ中学四年、十六歳になったばかりの少年である。
    ここで将来の進路を決定づけられるのは苛酷すぎた。
    自分ではまだこれといって将来を託した夢はなかったが、人なみの受験勉強はしていた。
    この春も失敗こそしたが福岡高校(旧制)を受験、再び来年にそなえてスタートしたばかりであった。
     
    しかし、父の命令は絶対であった。また周囲の事情もこれを許さなかったし、
    家督相続者があといない以上にげられる道ではなかった。
    そして、これが生涯今里が学校生活にもどれぬ”非情な”人生の”岐れ道”ともなってしまったのである。

    (中略)

    周知のごとく、酒造りというのは生きた糀を扱う仕事だけに、
    ちょっとした気温の変化や湿度のいたずらが、そのままその年の出荷の成否につながっていた。
    ひとつまちがったら店そのものが倒産しかねないというのが、まだ当時の醸造技術でもあった。
    したがってひとつひとつの工程が”真剣勝負”そのものであった。
    ましてや酒の仕込みといえば極寒期にかぎられている。
     
    それも朝は三時、四時の起床でいっせいに作業に着手する。”みるとやるとでは大ちがい”どころか、
    内部の一員、それも一朝にして店の責任者としてやらずるをえなくなった今里としては、
    いまさらながら仕事というもののきびしさやつらさを痛感させらるばかりであった。

    かといってここから逃げだせるという自由な身でもなかった。もともとがラフな性格である。
    体を拘束されることがどのくらいつらいことであったか、およその想像はつくわけだ。
    ましてや年齢的に十代後半から二十歳にかけてのもっとも好奇心がつのる遊びたいさかりである。
    頭ではわかっていても、体はそうそうまわりの思うようにはならなかった。

    朝は頭をこづかれどうにかみんなと歩調を合わせても、
    その反動はそのまま”夜遊び”のほうに噴きだしていった。
    それでなくても村の若い衆のことである。夜ともなれば三々五々集まっては密議をこらし、
    よからぬ遊びにも熱中するのが習慣である。

    それでも今里の場合、最初のころはまだたわいもないものだった。
    家の酒をこっそりもちだしては銀行の小使室
    (当時は父が経営していた波佐見銀行は生家の表にあった)にたむろし、
    夜ごと酒盛りをくり返しては艶っぽい話にうち興じていた。

    また、仲間や子分づくりの秘策では”金のないヤツからは金はもらわぬ主義”で、
    家の者に対してはそれをカムフラージュするために、チリンと大げさに金の音だけをさせて、
    金はもらわず酒だけをこっそり渡していた(当時は小売りもやっていた)。”広記さまさま”である。

    なにしろ、「怖いのは親爺だけだった」というだけあって、
    はじめのころはひとつにはその反動だったかもしれぬ。
    そんなふうにして、家の者が知ったらヒヤヒヤするようなことをやっては素知らぬ顔で楽しんでいた。

    仕事は早起きや仕込みの時のきびしさだけでなく、昼間もけっしてラクではなかった。
    倉庫での酒樽の積みおろしや小売店の卸にしてもすべて荷車であった。
    雨でも降ろうものならすぐ道路はぬかるし、冬場はまだしも夏など牛馬同然の重労働であった。

    こんなことを店の使用人たちとくり返して体験するうち、
    彼はますます現場の人たちの立場でものごとを考えるようになっていった。
    たとえばそうした”気くばり”は
    「昼の休みやお茶の時間にも多くみられるようになりました。
    わざわざ自分でお茶菓子を買いにいってはみんなをねぎらってくださるんですから 」
    (山口耕作-先代のころより勤務)である。

    かと思うと、たまにおこなう店員の慰労会ともなると、みずから佐世保くんだりまででかけていっては、
    「東京音頭」などの盆踊りまで仕込んできて、みんなに教えては一緒に楽しみ喜ばせていた。
    いつのまにか彼のまわりには”広記親衛隊”なるものがごく自然にできあがっていった。
    こうなると少々のことをやっても父親にバレるということはなくなった。
    「本当にもうみんな広記さまの味方でしたから」(前記 山口耕作)

    —————————————————
    長崎人気質と今里広記(以下本文より引用)
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    もちろん、人間は十人十色、いくら長崎生まれの長崎県人だからといって、
    すべての人がそうだとはいえないが、とにかく、お人好しというか、
    根が世話好きで明るく開放的な人たちが多いことはたしかである。
    それを、彼らみずから「馬鹿」だといってはばからない。根が陽気なのだ。

    それにしても、こうした陽気な県民性はどこからきたのであろうか。
    ものごとにこだわらず淡白で、しかも遊び好きで情熱的ときている。
    ”宵越しのカネはもたぬ”などという江戸っ子ほどの切れ味はないが、
    金銭に執着しないというのも事実である。

    ただ、こうしたことは「九州」全体の”九州人気質”ということで共通する面ではあるが、
    なかでも、めでたくお人好しという点では、群を抜いているのがここ長崎なのだ。
    だから、逆にいえば、まちがっても一大コンツェルンを築きあげるような
    大財閥型の人物が生まれにくいのも、長崎県民の特性ということになろうか。
    甲州人や近江商人のように、彼らが通ったあとはペンペン草も生えないという
    ガメツサに欠けているのだから、これはしかたがあるまい。

    そして、じつはこうした「県民性」をも、みごとに代表してくれているのが、
    この本の主人公、今里広記なのである。
     
    いざとなれば、自分のことは放っておいても、人のためには駆けずりまわる。
    金銭には淡白なくせに、遊び好きで寂しがり屋でもある。
    そのくせここぞというときは、とてつもなく情熱的で血気にもはやり、
    決断力にも富んでいる。まさに、今里の人となりや性格そのものである。
     
    それにしても、こうした県民性というのは、どこからきたのであろうか。
    見方により、理由はいろいろあげられようが、
    私はおよそつぎの三つにしぼりうるのではないかとみている。
    第一は歴史的背景、第二は”遊び”の文化、第三は地理的条件の三つである。
    —————————————————
    引用ばかりが並んでしまったこの記事ですが、敢えて今里広記伝に捉われず、
    著者の熱量が高い部分をご紹介して、この記事を終えたいと思います。
    なぜならば、上記に挙げたような人々がまさに波佐見町に生活していらっしゃるからです。

    財界、政界、そして文化部門にまでその人脈を広げ、
    総理大臣クラスから芸能人までが自らの誕生日会に忙しいスケジュールを縫って、
    駆けつけたという今里広記氏は顕著な例ですが、長崎の人、そして波佐見の人は、
    自らの生活以上に、他者のことを慮る行動を示されることが多いと私は感じています。

    けっして全員がそうでなくても、そういった人々がたくさん住む街は、
    必ず居心地の良い環境であると、私は日本各地様々な場所を旅した結果、痛感しています。

    この評伝が書かれてからすでに30年の年月が経っていますが、
    現代の今里広記の雰囲気を漂わせる人を求めて、私は年明け波佐見を訪れようと思っています。
     
    JUGEMテーマ:人間関係
    コメント
    この本文中の言葉ではありませんが、今里さんらしい言葉です。

    “ボクはね。中学しか出ていないんでね、これでいいんだ。生まれながら表に出るのが役回りだという人がいるものだ。ボクは裏の方が性にあってるんだ“
    • by 城後
    • 2014/12/26 8:10 AM
    よか言葉だね!表にでると怪我するもの!田ご作でいた方がよかです。元々田ご作だからのォ〜・・・
    分をわきまえる、今の日本人には死後のように感じますが、これは人間生活の要諦でありますね。
    • by 城後
    • 2014/12/26 8:59 AM
    毎度光ちゃんには参る世。
    死後→死語。
    • by 城後
    • 2014/12/26 9:52 AM
    だよね。
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